本屋で見つけて気になっていたが、ついに買って読みました。「利他」が何を意味しているのかは自分のテーマではあったので、とても考えが膨らんで面白かった。
そういえば最近、同じ白血球型の人が血が必要ということで献血に行ってきたんやけど、そういえばなんでいったんやろって。
利他的な感情を持つために共感は必要か
いわゆる「大変な状態だから助けてあげたい」というのは、自分も似たような経験を持っている方が強く感じることができる。現在あるいは過去の自分の気持ちと目の前にいる人の気持ちが≒であれば、なにかしてあげたいと思うのは当たり前だろう。松葉づえ通学しているときに電車の中でいろんな人に助けられたから、似たような人には席を譲ったりするようにしている。この、「共感から利他的になれる」というのはいい側面だとは思う。
一方筆者がいうに、例えば重い障害がある人が、「助けてもらうためには共感してもらわなきゃ」となって、考えや行動が窮屈になるのは望ましくない。ここで大事なのは、世間一般と異なる感情でも素直に吐き出すことが大事。また、それが吐き出せる程度の許容力が社会には必要、ということだろうと思う。また、受け取る側は、無理に共感しようとするのではなく、異なる場所から、その人の境遇に思いをはせること(エンパシー)が必要なんだと思う。
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意識してどうすることもできないもの、これが利他的であることだと述べている。よくボランティアの人が「居ても立っても居られない」というようなことを言うが、まさにこれである。感情の多くはこのような現れ方をする。「私は喜ぶ」というより「私に喜びがやってきて、とどまる」という方が近いのだ。しかしこれは少し難しいと思った。それが「いいこと」であれば、やらずにはいられなくてやっちゃう、というのは許されるべきであり、むしろ推奨される。しかし「悪いこと」は、やらずにいられなくてやっちゃったというのは認められない。電車の中で体調の悪そうな人に思わず席を譲ってしまった。というのはいいが、イライラする人を思わず殴っちゃった、というのは許されない。このくらい単純なことであれば、「衝動が出てもそれがやっていいことか判断してからやりましょう」という話でいいが、現実には非常に難しいこともあるのではないか。相手にとって耳に痛いことをいうときなど、それは善なのか悪なのかすぐには判断できない。何となく正解は
①衝動を感じたら
②かっちりとした目的関数を想像するような「合理的判断」は置いておいて
③自らの善悪の判断にのっとってやるか否かを決める
というものな気がする。
(自分はどうしようもないものだと自覚した時に利他心が宿る、みたいなことも書かれていたが宗教的でよくわからなかった)
利他は受け取られたときに成立する
これは確かに。「あなたのことを思ってやったのに!」みたいな押しつけがましいものではなく、ある種投げやりで、宙に投げたような行為が、誰かが本当に受け取って価値を感じたときにその行為は利他的になる。本当にそうな気がする。
まとめ
全体の流れを完全に理解できたわけではないが、一つの落語の話をもとにいろいろな議論が出てきて面白かった。本当の意味で利他的な人間になれたらなあと思っているので、内部力学を少し考えてみるのは大事なのかもしれない。また読みかえそう。